最終更新日
Thu, Mar 13, 2008
「感情の噴出」

2)性格の鎧
 意識が「性格の鎧」をまとい、攻撃性や闘争心あるいは激しさ・荒々しさといったものを包み込んだ結果、生来のものの噴出が許されるスポーツの場であっても、子どもたちはなかなかそのように行動できなくなってしまっているのではないだろうか。

 指導者の側も日常生活を支配している規範(ルール)、すなわち「あるべき良い子」の姿をスポーツの場にも求めているのかも知れない。普段の生活の中では認められない行動であっても、スポーツの場面では許されるはずなのにそうできないのは、「性格の鎧」のためである。そうしたものをはぎ取るひとつの方法が「大声」を出すことなのである。

 スポーツの世界は、サッカー場の熱狂的なファンの応援やプロ野球の私設応援団のそれを見てもわかるように、現実世界・日常生活では抑制されている感情の表出が許される世界である。しかしだからといって、そこは決して危険なところではない。感情抑制が外される(脱コントロール)としても、それが一線を超えて安全を脅かすようなことはない。手がつけられない感情表出の暴走には一定の歯止めが掛けられていて、その閾値の中で感情表出が認められている。あくまでそこは、コントロールされた中で脱コントロールされる世界である。スポーツが行われる場は、普段の生活の中では発現できない「感情の噴出」を認め、促進する人工的な「飛び地」なのだ。

 「スポーツの世界は感情表出の規制を安全に取り外す絶好の機会を提供している」という考え方が認められるとすれば、子どもたちにも当然それが許されて良い。指導者はその中では行儀の良い振る舞いだけを求めることはない。人の尊厳を傷つけたり、意地汚い振る舞いが決して許されるわけではないことを断っておかなければならないが、「性格の鎧」を脱ぎ捨て、大声を出し、エネルギーを発散させ、もっと活発に行動することを認めてやることこそ大切なのではないだろうか。「コントロールされた脱コントロール」が許される場を提供できるのが指導者である、と考えるべきなのではないかと思う。もっと意図的にそれを利用して良い。