伝統芸能の継承の場では、真似すべき対象はあらかじめ決められており、それを批判することはできない。一方、子どもがどんなスポーツ技術を真似しようとそれは本人の自由である。しかし、もし真剣に真似しようと努力しているその技術が、指導者の目から見て無用な技術に映るとき、指導者は自分の役割を「教え、導かなければならない立場」にあると考え、その間違いを指摘し、正しい道筋を示そうとする。
子どもは自ら課題を見つけてそれを解決すべく努力しようとしているのに、指導者に批判されていると感じ、ひどく傷つくことがある。指導者側としては、批判しているのは活動であって「やる気」ではない。しかし子どもは、やろうとしていることをことごとく否定されるので、何をやっても誉められず、努力しても無駄だという諦めの気持ちを抱き、やる気をなくしてしまう。技術の習得よりもやる気の育成の方が大切な時期があるように思う。
芸は一朝一夕に身につくものではなく、長い時間をかけた繰り返しの練習が必要である。現代に支配的な価値観である「効果」や「効率」を考えた行動では、技術の習得は難しい。どうしても時間的な猶予が必要である。しかし時間の経過に伴って「やる気」が失せるときがある。なかなか技術が身につかず、諦めの気持ちが強くなる。このときに師匠は、上手くいかない原因を指摘するといった直接的な指導はせず、とにかく稽古に励むことを奨めることがある。初めの頃のやる気を思い起こさせ、喚起するというのだろうか。
子どもたちがスポーツのような身体活動にのめり込むとき、「上手くなるために」、「勝つために」といった目的意識を持って活動していることは少ない。成果など気にしていない。技術習得のために練習しているといった気持ちは一切そこにはなく、ただ楽しいからやっているに過ぎない。活動そのものに専心し、無心でボールを追いかけるという心理状態である。ひたすらプレイすることだけに没頭している。しかしそのことがことばでは説明できない「楽しさ」の源泉になり、将来に続くスポーツ活動を支える動機付けになるのではないかと思う。
「活動そのものを楽しむ」とは消費主義的であり、非生産的である。「技術習得をめざす」とは結局、「なにがしかの成果を出す」という考え方に連なるもので業績主義と形容でき、労働倫理と相通じるものがある。我々大人はこうした考え方に慣れ親しんでいるために、何ら違和感を感じず、子どものスポーツ活動にもこうした考え方を当てはめようとしているのではないだろうか。
大人の視点から見たスポーツは、ただの遊びでは許されないわけだ。何であれ、効果や結果が求められる「目的を持った」活動でなければならない。しかし、無心でボールを追いかけた経験の上に「上手くなろう」「相手に勝とう」といった目的的な動機付けがいずれ形づくられると考えれば、まずはそうした「没頭する」「没入する」という経験を大切にすべきであると思う 習字を例にとれば、文字の形をなぞるだけで、どこで筆圧を強くすれば良いのか、いつ筆の運びを止め、勢いを持たせると良いのか、などに心を配ることなく、筆を動かすのだ。学習することの大切さは理解しているものの、やる気が失せてしまっているので、気づこうとする努力や試行錯誤という工夫がなされない。指導者が提示した課題(この場合、基本技能)に問題があるわけではない。その提示の仕方が問題なのである。子どものやる気を考慮しながら、課題を設定すること、できれば子どもたち自らが課題を見つけ出すようにし向けること。